認知症のある方の「落ち着きのなさ」や「不穏」に寄り添う色彩デザイン:心理的安定を促すケア空間のヒント
はじめに:色彩が「落ち着きのなさ」や「不穏」に寄り添う可能性
高齢者施設において、特に認知症のある方の「落ち着きのなさ」や「不穏」といった行動は、現場のケアに大きな影響を与え、ご本人様だけでなく他の入居者様のQOLにも関わる重要な課題です。これらの行動は、多くの場合、不安や混乱、居心地の悪さといった内面的な状態の表れと考えられています。
このような状況に対し、私たちはケア技術や声かけといった直接的なアプローチに加え、入居者様を取り巻く「空間」の力が持つ可能性に注目しています。特に「色彩デザイン」は、言葉に頼らずとも人の感情や心理状態に働きかけ、安心感や落ち着きをもたらす力を持っています。
この記事では、認知症のある方の「落ち着きのなさ」や「不穏」といった行動課題に対し、色彩がどのように心理的な安定を促すのか、その基本的な知識と、現場で活かせる具体的なカラーデザインのアイデア、そして色の変更によって見られた入居者様の変化事例をご紹介します。この記事を通じて、皆様のケア実践に役立つ新たな視点を提供できれば幸いです。
認知症のある方の視覚特性と色の心理効果
認知症の進行に伴い、視覚機能にも変化が生じることが少なくありません。色の識別能力が低下したり、コントラストが分かりにくくなったりする場合があります。また、明るすぎる色や刺激的な色は、かえって混乱や不穏を招く可能性も指摘されています。
一方で、色は私たちの心理や感情に直接的に働きかける力を持っています。特に、落ち着きや安心感に関連する色として、一般的に以下のような色が挙げられます。
- 青系: 心を鎮め、リラックス効果や信頼感を与える色とされています。血圧や心拍数を落ち着かせる効果も期待できます。
- 緑系: 自然を連想させ、安心感や調和、癒しをもたらす色です。目の疲れを和らげる効果もあると言われています。
- ベージュ、オフホワイト、淡いグレーといった中間色: 穏やかで安定感があり、他の色を引き立てつつ空間全体に落ち着きを与えます。
これらの色は、単体で使用するだけでなく、組み合わせることで相乗効果を生み出すことがあります。重要なのは、あくまで「落ち着き」を目的とする場合、彩度(色の鮮やかさ)を抑えた、優しく穏やかなトーンを選ぶことです。
「落ち着きのなさ」や「不穏」に寄り添う具体的な色彩デザイン事例
では、施設内の様々な場所で、どのように色彩を活用できるでしょうか。認知症のある方の「落ち着きのなさ」や「不穏」といった状態に寄り添うための具体的な事例をご紹介します。
1. 居室:安心できる「私の場所」を演出
居室は、入居者様にとって最もパーソナルで安心できる空間であるべきです。
- 壁色: 全体を淡いベージュやクリーム、ペールトーンの緑や青で統一すると、穏やかで落ち着いた印象になります。全面塗装が難しければ、ベッド周りなど視界に入りやすい一面だけでも落ち着いたアクセントカラーを取り入れることも有効です。
- カーテン・寝具: 面積が大きいカーテンや寝具は、心理的な影響も大きくなります。柔らかな素材感と、淡いブルーやグリーン、ラベンダーといった鎮静効果のある色を選ぶと、リラックスを促し安眠につながる可能性があります。
- 小物: クッションやブランケット、ベッドサイドの小さなラグなどに、居室全体のトーンに合わせた落ち着いた色を取り入れます。お気に入りの色の小物を置くことで、安心感や愛着が生まれることもあります。
2. 共有スペース:穏やかな交流と休息の場を創出
共有スペースは、活動的なエリアと落ち着いて過ごせるエリアを明確に分けることが理想です。
- 落ち着きコーナー: 窓際や施設の角など、比較的静かで落ち着けるエリアを設け、壁の一部を淡い緑や青にする、またはこれらの色のパーテーションやソファを配置します。柔らかな間接照明と組み合わせることで、よりリラックスできる空間になります。
- 家具の色: 全体的に明るすぎる色や、刺激的な模様の家具は避け、木目調や落ち着いたトーンのファブリックを使用します。椅子やソファの色を、エリアの目的に合わせて変える(例:活動的なエリアは暖色系も適度に、落ち着きコーナーは寒色系や中間色中心に)のも良い方法です。
- 掲示物: 壁に貼るポスターやカレンダー、飾り付けなども、色彩には配慮が必要です。目に優しく、かつ内容が分かりやすい配色を心がけ、過度に情報を詰め込みすぎないようにします。
3. 廊下:安心できる動線を確保
廊下は、入居者様が移動する上で不安を感じやすい場所でもあります。
- 壁色: 全体を明るすぎない中間色で統一し、落ち着きを保ちます。
- 手すり: 手すりの色は、壁色と十分なコントラストをつけ、視認性を高めることが安全確保につながります。落ち着いた色合いの中で、手すりだけがはっきりと認識できるような色を選ぶと良いでしょう。
- 目印: 特定の場所(食堂への曲がり角、トイレの入り口など)を示す目印として、アクセントカラーを活用することもできます。ただし、落ち着きを促す観点からは、暖色系の強い色よりも、視認性が高く穏やかなトーンの色(例:落ち着いたオレンジやイエローのグラデーション、または形状と組み合わせる)を検討します。
4. 浴室・トイレ:プライバシーと安心感を両立
プライベートな空間であり、転倒リスクもある場所です。
- 壁・床色: 清潔感のある淡い色を基調としつつ、床は滑りにくく、かつ壁とのコントラストで境界線が分かりやすい色を選びます。
- 手すり・設備: 手すりや便座、浴槽の縁など、掴まったり腰掛けたりする部分は、周囲の色と明確なコントラストをつけ、認知しやすい色にすることで、安全と自立した行動を支援します。青や緑系の色は、清潔感やリラックス効果も期待できます。
今すぐ試せる!お手軽な色彩活用アイデア
大規模なリフォームは難しくても、日々のケアの中で色彩の力を借りる方法はたくさんあります。現場の皆様がすぐに実践できるアイデアをご紹介します。
- カーテンやクッションの色を変える: 居室や共有スペースの雰囲気を手軽に変えられます。入居者様の状態に合わせて、落ち着いた色合いのものを選んでみましょう。
- ブランケットやひざ掛けの活用: 不穏になりやすい時間帯や場所に、落ち着いた色のブランケットやひざ掛けを用意するのも良い方法です。触り心地の良い素材を選ぶと、安心感が増します。
- 壁に飾る絵やタペストリー: 自然の風景など、穏やかな気持ちになれる絵やタペストリーを飾ることで、空間の印象が大きく変わります。絵の色合いは、落ち着いたトーンのものを選びます。
- 照明の色温度を調整する: 白っぽい昼光色よりも、暖色系の電球色の方が温かく落ち着いた雰囲気になります。特に夕方から夜にかけては、電球色の照明にすることで、時間帯の認識を促しつつリラックス効果を高めることができます。
- 小物の色を活用する: ケアに使用する物品(エプロン、ファイルなど)の色を落ち着いたトーンに統一したり、入居者様の手に触れることの多い小物(コップ、塗り絵の道具など)に安心感のある色を取り入れたりすることも、細やかな配慮として有効です。
- 季節やイベントに合わせた色の変化: 季節ごとに壁飾りやテーブルクロス、花の色などを変えることで、穏やかな変化を空間にもたらし、入居者様の生活に彩りを与えることができます。ただし、派手すぎず、落ち着いたトーンを意識することが重要です。
色彩デザインによる入居者様の変化事例
ここでは、色彩デザインの工夫によって、入居者様の行動や精神状態に良い変化が見られた事例(フィクション)をご紹介します。
事例:夕方の不穏が和らいだA様
A様(80代、女性、認知症)は、日中は穏やかにお過ごしですが、特に夕方になると居室で落ち着きなく立ち上がったり、「家に帰る」と繰り返し話したりすることが多く、不穏な様子が見られることがありました。
そこで、A様の居室のカーテンを、従来の明るい花柄から、柔らかなベージュと淡いグリーンのグラデーションが入ったものに変更しました。また、夕方になると落ち着きのなくなる傾向があるため、共有スペースの窓際に設けられた、静かに過ごせるエリアの壁の一部を、落ち着いたペールブルーに塗り替えました。このエリアには、柔らかな素材のソファと、暖色系の間接照明を設置しました。
色彩デザインの変更からしばらく経つと、A様は夕方になると自然とそのペールブルーの壁の前のソファに座って過ごす時間が増えました。ソファに座り、窓の外を眺めたり、スタッフがそっと差し出すブランケットにくるまったりすることで、落ち着きのない立ち上がりや「家に帰る」といった言葉が減り、穏やかな表情で過ごされることが多くなりました。
この事例は、特定の色の心理的効果に加え、空間全体のトーンを整えること、そして入居者様の状態に合わせて「落ち着ける場所」を色彩で分かりやすく示すことの重要性を示唆しています。
結論:色彩の力を借りて、より穏やかなケア空間を
この記事では、認知症のある方の「落ち着きのなさ」や「不穏」といった行動課題に対し、色彩デザインがどのように心理的安定を促すことができるかをご紹介しました。特定の色の心理効果を理解し、居室や共有スペース、廊下といった施設の様々な場所で適切に色彩を活用することで、入居者様の安心感を高め、落ち着きを促すことが期待できます。
大規模な改修が難しくても、カーテンや小物、照明の色といった身近な要素を変えるだけでも、空間の雰囲気は大きく変わります。これらの実践的なアイデアは、日々のケアの中で比較的容易に取り入れることができるものです。
「落ち着きのなさ」や「不穏」は、入居者様が発信するサインの一つです。そのサインを受け止め、言葉や行動によるケアだけでなく、色彩という視覚的なアプローチも取り入れることで、入居者様にとってより心地よく、安全で、そして何よりも「安心できる」ケア空間を創り出すことができるはずです。
この記事が、皆様の現場でのケア実践において、色彩の力がQOL向上に貢献するヒントとなれば幸いです。